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新生のらくろ君Aの館

新生のらくろ君Aの館

中学時代


中学時代に入りました

申



住居も変わり、中学時代の幕があけた。
中学校は吹田市立第一中学校、第一である。
そこに他学区からの編入学と似た形で入った、田舎者は、皆から、好奇の目で見られた。
中学校の形は、変わっていて(今は訪れてないので分からないが)校庭が3段に別れていた。一番上庭に校舎があり、そこには猫の額ほどの校庭(通路)があった。
中庭には、テニスコートやバスケットコートがあり、最下段の校庭は、トラック、ラグビー、野球などが出来るようになっている。ユニークといえばユニークだが、坂を上り下りするのが、しんどかった記憶がある。

入学と同時期に校内学力試験が行われた。その結果、私の名前は廊下上部の巻紙左に、学年校内3番の成績で張り出された。
みんなの私を見る目が変わったのは言うまでもない。特別に試験のための勉強をした訳でなく、自然にそうなったのだから、親父の血というものだろう。その後、十数回の模擬試験があったが、全校で常に5番を下回ることが無く時には1番の栄誉?に輝いたこともあった。

とにかく出来る奴は決まっていて、顔に小さなあざのある桜田君とおとなしい白い顔の吉岡君であった。彼らはきっと猛勉強をしていたに違いない。かな?
中学に入り、2年先輩に久保圭司さんがいて、早世されたが、抜群に頭が良く、バスケットもうまかった。

その同期生に小柄な可愛い人で、S.O.さんがおられ、この人も良くできた人だった。淡い恋心を持ったが、無骨な親に育てられたからか、如何にアプローチして良いのか、又2年も上の女性をと逡巡し、廊下で後ろからわざと肩でぶつかり、振り返って、「ご免なさい」というのが精一杯のアッピールだった。当然S.O.さんが気づくはずもなくそれまでだった。
久保さんの魅力にひかれ、バスケットボールを始めることになり、以来社会人になってもボールとの縁が切れず正に青春を打ち込むスポーツとなった。

そのきっかけは、当時体育館など無く校庭に作られたバスケットコートで遊んでいる時、エンドラインとサイドラインのコーナー付近から投げたボールがバスケットの中に吸い込まれ、これを見て、「素質がある、お前バスケをやれ」と言われたのがきっかけだった。
ここで永井忠君を知った。彼は今報知新聞の整理部長をしているが、パソコンが出来ず「早くやれ」と言っても言を左右にしてやらないタイプである。(今はメールは出来るようだ)
3才上の、彼の兄さんは、「誠」といい、1浪して、京都大学の経済学部を出、丸紅飯田から、その子会社の社長に転出されたところまでは聞いたが、その後の消息は知らない。かの久保さんは現役入学の京大生であり工学部だった。バスケットボール部は恵まれた環境であった。

同級生のM.Kの妹で、N子という子がいた。テニスを良くし、真っ黒な顔だったが、はつらつとしていた。
彼女にも淡い恋心を持った。
彼女の家が見える高台に登りボーとして家の方角を見つめていたが(これってストーカー?)気の利かぬ、M.Kは仲を取り持たない。
意を決して、何かの拍子に付き合ってくれと言ったがあっさり蹴られてしまった。彼女は若いのに見る目があったとしか言いようがない。
又、M.Uさんにも恋慕の情を抱き、手に入れ墨の如く両方のイニシャルを刻んだことがあった。myである。
なぜか?彼女達に振られ、中学時代に恋が芽生えることは、後にも先にもなかった。
三年生の秋期学芸会(今で云う学校祭)で、狂言の「ぶす」(黒飴)の太郎冠者役を演じ、競演のわき、牧野君、永岡君とで、体育館を湧かせたこともあった。
今、野村万作が有名だが、ブームになる遙か昔に狂言を演じたことを思い出し、台詞の発音や、足さばきなど、見ているよりは結構難しく、又楽しいものであることがよく理解できた。それにしても台詞を覚えるのは大変だと、役者になることは大変なことなんだとこの時思った。

吹田第一中学の校歌は卒業アルバムに歌詞が掲載されているらしい。
らしいというのは、手元にアルバムがないからである。
****以下の通りだ。

  1. みどり燃えたつ  千里の山に
     高き理想を    託しつつ
     ただひとすじに  はげみゆく
     けがれに染まぬ  若人の
     正しき集い    ここにあり
  2. ひざし明るき   桜の丘に
     自然の恵み    友として
     あさなゆうなに  きたえゆく
     希望果てなき   若人の
     楽しき集い    ここにあり
   伸びよやさしくすこやかに
   とわには栄えあれわれらのまなびや

 吹田一中は移転したと聞く、今はどうなっているのだろうか?

校歌とは別に、一中賛歌というのがあって、よく唱われていた。
    「見晴るかす摂津北野の、日陰よき千里の山に稜々微風は、
     身を吹く、さらば友よ、学びやの名を、朗らかに等しくずせん、
     若き我らの集い良きかな」

未だ中学時代は続くがいったん終了する。





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